5月15日 井上光晴(小説家)

四月長崎花の町。八月長崎灰の町。十月カラスが死にまする。正月障子が破れ果て、三月淋しい母の墓

井上 光晴(いのうえ みつはる、1926年(大正15年)5月15日 – 1992年(平成4年)5月30日)は日本の小説家。

冒頭の詩は井上光晴の名著『地の群れ』の中の歌であるが、井上光晴自身が創作した手鞠歌であるという。この手鞠歌は短いからこそ原爆の悲惨さを語りかけてくる迫力がある。

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5月14日 前川國男(建築家)

建築の理論を最後の一歩まで推し進める力は、口でもない手でもない、やはり建築家それ自身の生活力または生活意識そのものであります

前川 國男(まえかわ くにお、1905年5月14日 – 1986年6月26日)は日本の建築家である。府立一中、一高、東京帝大工学部卒。ル・コルビュジェの事務所に入所し、帰国後建築設計事務所をひらく。丹下健三らを育てる。

『前川國男 現代との対話』(六曜社)を読むと、建築家にとどまらず、思想・文化の巨人だったようだ。文化的価値の高い歴史的建造物を復元・保存・展示している小金井市の江戸東京たてもの園の前川國男邸は、吹き抜けの居間を中心に、それをはさむように寝室、書斎を置くという簡明な構成だ。概観の全体像は和風。建築面積は115.55へーべと小さいが、豊かな快適な空間を意識させる。強い生活力と高い生活意識を感じる空間であり、冒頭の言葉に納得する。

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5月13日 芹沢 銈介(染色工芸家)

もうひとつの創造

芹沢 銈介(芹澤銈介、せりざわ けいすけ、「けい」は金偏に圭、1895年(明治28年)5月13日 – 1984年(昭和59年)4月5日)は、日本の染色工芸家。

70代からの「もうひとつの創造」とは、自分で選び、日々を楽しんだ蒐集に情熱を傾けることであった。芹沢は、染織家としてのつくる喜び、蒐集家としてのつかう喜びの両方を知っていて、自宅に人を招くときは、配置するものを変えていたそうだ。創作と生活の一致にいたっている。時代や国境を越えた、そして様々なジャンルにわたった蒐集の日々も感動的な日々だった。染織と同様に、蒐集もまた創造なのである。

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5月12日 青木昆陽(幕臣御家人、書物奉行、儒学者、蘭学者)

金銀、平日は至宝なれども、、饑寒(飢饉や酷寒)の用をなさざれば、金銀を集むるは何の為にや

青木 昆陽(あおき こんよう、元禄11年5月12日(1698年6月19日) – 明和6年10月12日(1769年11月9日))は、江戸時代中期の、幕臣御家人、書物奉行、儒学者、蘭学者。

琉球、長崎を経て伝わった甘藷(さつまいも)を今の幕張と九十九里で試作している。九十九里の碑や幕張の昆陽神社、そして墓のある目黒不動墓地での甘藷まつりが今なお続いていることなど、この人は多くの人から尊敬されている。平時の金銀財宝ではなく、非常時の至宝をつくったのだ。甘藷先生という尊称は、人爵ではなく、人々が与えた天爵だろう。それが尊い。

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5月11日 川喜田二郎(地理学者、文化人類学者)

創造的行為の三カ条。自発性、モデルのなさ。切実性

川喜田 二郎(かわきた じろう、1920年(大正9年)5月11日 – 2009年(平成21年)7月8日)は、日本の地理学者、文化人類学者。

生涯を通じて「創造」を考え抜いた実践者である川喜田二郎は、自発性・モデルのなさ・切実性を挙げている。自分自身の内からでてくるやむにやまれぬ強い動機から、今まで誰もなし得なかったことに、自ら突っ込んで行く。それが創造への道だ。その過程で自己変革が起こる。そして共同で達成した後には、関わった人々には強い連帯感が生まれる。こういたプロセスが人を育てることなのだ。リーダーたる人はそれを意識したい。

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5月10日 桑原武夫(フランス文学、文化研究者、評論家)

汚い金をきれいに使うのが文化ちゅうもんや

桑原 武夫(くわばら たけお、1904年(明治37年)5月10日 – 1988年(昭和63年)4月10日)は、日本のフランス文学・文化研究者、評論家。文化勲章受章。人文科学における共同研究の先駆的指導者。

金を集めるのは難しい。しかし金を使うのはさらに難しい。優れた事業家が絵画などの芸術品を集めてコレクションを楽しむのは、贅沢でもあるが、金の使い方という意味では素晴らしい。そういうコレクションが美術館に結実している。文化人は経営者に金を使わせることができれば、大いに貢献できる。そのときの殺し文句がこれだ。

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5月9日 金子鷗亭(書家)

芸術には進化はないんです。芸術は変化があるのみです

金子 鷗亭(かねこ おうてい、1906年5月9日 – 2001年11月5日)は、北海道松前郡生まれの書家。近代詩文書を提唱した。文化勲章受章者。

金子は漢詩・漢文などの異国趣味を排し、日本の口語文・自由詩・短歌・翻訳等の詩文を新たに題材とすべきであり、また書の表現も現代にふさわしい表現とするべきだと言って賛同者を増やした。時代に応じた変化を主張したのだ。

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5月8日 高山彦九郎(思想家)

朽ちはてて身は土となり墓なくも 心は国を守らんものを

高山 彦九郎(たかやま ひこくろう、延享4年5月8日(1747年6月15日) – 寛政5年6月28日(1793年8月4日))は、江戸時代後期の尊皇思想家である。

細井平洲を師と仰ぐ高山彦九郎は、足利幕府以来の武断政治を仮の姿とし、朝廷による文治政治が日本本来の政治の姿であるとの確信を持っていた。そのことは徳川幕府に対する疑念となる。それは反幕の思想であった。この考え方は日本国内に深く浸透し「尊王攘夷」という思想を生んだ。高山彦九郎は冒頭の歌のとおりに生き、そして死んだ。その屍(しかばね)を乗り越えて、明治維新が成った。

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5月7日 本居宣長(国学者、文献学者、医師)

志として奉ずるところをきめて、かならずその奥をきわめつくそうと、はじめより志を大きく立ててつとめ学ばなくてはならぬ

本居 宣長(もとおり のりなが、享保15年5月7日(1730年6月21日)~享和元年9月29日(1801年11月5日) は、江戸時代の国学者・文献学者・医師。「古事記伝」44巻を完成。

日記は、自分の生まれた日まで遡って書き、亡くなる二週間前まで書き続けていて、「遺言書」を書いて葬式のやり方から墓所の位置まで一切を支持している。宣長は記録魔だった。そして継続の人だった。志を立て、うまずたゆまず進んでいけば、何ごとも達成できる。そして世界を変えることができる。そういうことを本居宣長の尊い人生は教えてくれる。

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5月6日 井上靖(小説家)

努力する人は希望を語り、怠ける人は不満を語る

井上 靖(いのうえ やすし、1907年(明治40年)5月6日 – 1991年(平成3年)1月29日)は、日本の小説家。文化功労者、文化勲章受章。代表作は『敦煌』『孔子』など。

勉強家・努力家であった井上靖の言葉には深い叡智が宿っている。芥川賞で世に出たのは42歳という遅咲きだ。その受賞作『闘牛』のモデルは小谷正一である。井上靖は乏しい才能を40という年齢が補ってくれたと述懐している。15年かければ全く新しい人生をつくることができるという言葉も井上靖だから説得力がある。君は不満を語るか、希望を語るか。

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