5月5日 塙保己一(国学者)

命かぎりにはげめば、などて業の成らざらんや

塙 保己一(はなわ ほきいち、延享3年5月5日(1746年6月23日) – 文政4年9月12日(1821年10月7日))は、江戸時代の国学者。『群書類従』『続群書類従』の編纂者である。総検校。贈正四位。15歳で江戸に出て、衆分、29歳勾当、37歳検校、75歳総検校に進む。

塙保己一は本を人に読んでもらってそれをすべて覚えていたという。夜に講義をしているときに「目あきというのは不自由なものじゃ」と言ったいいう逸話も残っている。塙保己一は、身の不幸を嘆き自殺を考えたが、命の限り励めば、出来ないことはないと思い直し、盲目の身でハンディをものともせず大事業を完成させたのである。

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5月4日 森繁久彌(俳優、歌手、コメディアン)

芸人とは、芸の人でなく芸と人ということではないか、、、、

森繁 久彌(もりしげ ひさや、1913年5月4日 – 2009年11月10日)は、日本の俳優、歌手、コメディアン、元NHKアナウンサー。昭和の芸能界を代表する国民的名優。

この言葉の言葉の後には、「なべて『人』」を失っているかの感なきにしもあらずだ。人が人たるを失って、世の中に何があろう」と続く。映画や芝居などより、実際の人生の方がおかしく、切ない。その人生から学びながら人をつくっていく。どのような職業も「人」が重要だが、人生を表現すことを生業とする役者は、見る人が役と人とがないまぜになってみているから、特に「人」が重要なのだ。遅咲きの国民的俳優・森繁久彌はその機微を知っていた。

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5月3日 柴五郎(陸軍軍人)

中国人は友としてつき合うべき国で、けっして敵に廻してはなりません

柴 五郎(しば ごろう、1860年6月21日(万延元年5月3日) – 1945年(昭和20年)12月13日)は、日本の陸軍軍人。軍事参議官・台湾軍司令官・東京衛戍総督・第12師団長を歴任し、階級は陸軍大将勲一等功二級に至る。

北清事変で、見事な指揮ぶりと高潔な人格で各国の尊敬を集めた柴五郎の活躍によって、英国はこのような素晴らしい軍隊を持つ日本と同盟を結ぶ。日英同盟の親とも言うべき人物だ。柴五郎は中国をよく研究していた。その柴五郎は中国を敵とせずに、友とせよと述べている。耳を傾けよう。

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5月2日 松本望(メーカー・パイオニアの創業者)

無鉄砲なくらいのチャレンジをさせなくては企業の若さは保てない

松本望(1905年5月2日-1988年7月15日)は、音響メーカー・パイオニアの創業者。

組織の内外には知恵を持った人は多い。この人たちに創造の喜びを感じさせることがリーダーの役割だ。松本望のいう「無鉄砲なくらいのチャレンジ」とは、パイオニア精神そのものだ。パイオニアと命名された会社は、パイオニア精神と若さにあふれた企業になっていくはずだ。

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5月1日 吉村昭(小説家)

事実を主にしても、私は小説を書いている

吉村 昭(よしむら あきら、1927年(昭和2年)5月1日 – 2006年(平成18年)7月31日)は、日本の小説家。妻は作家の津村節子。

吉村昭は丹念な取材で事実を明らかにしていくが、それはノンフィクションではなく小説であるという。事実と事実のすき間を主人公たちの想像上の名言で埋めていく、それが小説である。小説を書き遺すことで、肉体は滅びても魂は生き続ける。吉村昭の小説が読者を引き込むのは、鍛え抜かれた名言を絞り出す魂の迫力である。

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4月30日 川喜多長政(映画製作者、輸入業者)

人は祖国を離れたとたんに、愛国者となる

川喜多 長政(かわきた ながまさ、1903年4月30日 – 1981年5月24日)は、映画製作者、輸入業者。国際的映画人として、とくにアジアでは絶大な信用を有した。妻で長政以上の国際的知名度を持つ「日本映画の母」かしこ、娘の和子(伊丹十三の最初の妻)とともに「川喜多家の三人」として記憶される。

長政という名前は、歴史好きの父がアジアに飛躍するようにと山田長政からとったという。その名のとおりに「映画」をテーマにアジアと世界に雄飛した川喜多長政は、海外に出たらみなが愛国者になると述べている。外に目が開かれると、自身の内側に目が向かう。郷里から出る、日本から出る、このとき私たちはアイデンティティを強く意識する。そして愛郷心、愛国心が芽生えるのだ。

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4月29日 仰木彬(プロ野球選手、監督、野球解説者)

イチローをつくったのは俺だ!

仰木 彬(おおぎ あきら、1935年4月29日 – 2005年12月15日)は、福岡県出身のプロ野球選手、プロ野球監督(近鉄、オリックス)、野球解説者。

「自分が一流になれなかったのは、若い時に遊びすぎたからだ。あとから気づいても遅いんだぞ。オレが悪い見本や」と言った仰木は、恩師の三原監督をもじって「仰木マジック」といわれる奇策を成功させた名監督であるが、人を育てるマジシャン(魔術師)でもあった。野茂英雄、長谷川滋利、イチロー、田口壮などは仰木が育てた大リーガーだ。孤高の天才・イチローは「僕の唯だ一人の師匠」と記者の質問に答えている。確かにイチローを育てたのは仰木彬の最大の業績かも知れない。

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4月28日 藤田喬平(ガラス工芸家)

作家というのは本当は六十からが勝負。自分の持ち味を出せるようになるんだ

藤田 喬平(ふじた きょうへい、1921年4月28日 – 2004年9月18日)は、ガラス工芸家。イタリアで学んだ色ガラスと金箔を混ぜた飾筥(かざりばこ)で独自のガラス工芸分野を確立した。1997年(平成9年)文化功労者。2002年(平成14年)文化勲章受章。

この言葉の後には「若いうちは自己主張が強くなるが 人間を積み重ねることによって力を抜けるようになる 手を抜いているようで手を抜かない これが出来ないと、、、」と続く。藤田は1976年に日本ガラス工芸協会会長に就任するが、その翌年の1977年にはイタリアヴェネツイアに渡りガラス制作を始める。このとき、56歳。藤田は、「ベネツイアの恋」などベニス花瓶などの新作レース文様ガラス器を次々と発表して新境地を開いていく。「趣味なんか持っていたら、仕事なんかできないよ」と言いながら過去の自分の殻を破っていく姿には感動を覚える。藤田喬平は中年の危機をこのようにして乗り切って世界を相手に高みに登っていったのである。

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4月27日 グラント(軍人、政治家)

君に合戦計画を与えるつもりはない。達成してもらいたいことを計画しただけであり、それをどのように達成するかは君の自由だ

ユリシーズ・S・グラント(英: Ulysses S. Grant、1822年4月27日 – 1885年7月23日)は、アメリカ合衆国の軍人、政治家。南北戦争北軍の将軍および第18代アメリカ合衆国大統領。アメリカ史上初の陸軍士官出身の大統領。

グラント将軍は部下には目標を与え、達成方法いついては裁量を与えた。目標と裁量の関係を熟知しており、マネジメントの原則を自然に身につけていた。また戦争では互いに自軍が負けていると感じる時点があり、そこで弱気にならないものが勝つという微妙な真理を知っていた。戦争を行う将軍の心理戦にも精通していた。南北戦争における北軍の勝利はこの一人の天才によるところが大きい。

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4月26日 シェークスピア(劇作家、詩人)

『今が最悪の事態だ』と言える間は最悪ではない

ウィリアム・シェイクスピア(英語: William Shakespeare, 1564年4月26日(洗礼日) – 1616年4月23日(グレゴリオ暦5月3日))は、イングランドの劇作家、詩人であり、イギリス・ルネサンス演劇を代表する人物でもある。

「簡潔こそが英知の真髄である」などシェークスピアは人生と人間の観察の天才だ。冒頭の言葉にはいくつかの解釈があるが、「最悪の事態だ」と言葉にするときには、まだ希望が残っている、ととらえたい。

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