12月11日 小田野直武(画家)

下手ですが、断り切れないので描きました

小田野 直武(おだの なおたけ、寛延2年12月11日(1750年1月18日) – 安永9年5月17日(1780年6月19日))は、江戸時代中期の画家。秋田藩士。通称を武助。平賀源内から洋画を学び、秋田蘭画と呼ばれる一派を形成した。

前野良沢・杉田玄白らによる『解体新書』の翻訳作業は、図版を印刷するため、『ターヘル・アナトミア』などの書から大量に図を写し取る必要があった。旧知の源内の紹介によって、直武がその作業を行うこととなる。冒頭の言葉は、若き直武が『解体新書』の序文に書いた言葉である。

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12月10日 武智鉄二(演劇評論家、演出家、映画監督)

芸術は表現であるが、表現は制約があって初めて成り立つ。制約のないところに表現はありえない

武智 鉄二(たけち てつじ、旧字体:鐡二、大正元年(1912年)12月10日 – 昭和63年(1988年)7月26日)は、大阪市出身の日本の演劇評論家、演出家、映画監督。

武智演出の『鳴神』を観たノグチ・イサム(彫刻家)が「これが歌舞伎だ!」と叫んだという。論理的に鍛えられたせりふの言い回しが、経験的職人芸的な歌舞伎役者のそれを、十分に上回ったのだ。これは武智理論の実証的勝利でああった。
歌舞伎からハードコアまでの「革命」という両極端を歩んだ鬼才・武智鉄二の存在の意味はまだ明らかにされていない。

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12月9日 浜田庄司(陶芸家)

願は大きく立てよ。立てたら向きは変えるな。あとは非妥協一本やりでいけ

濱田 庄司(はまだ しょうじ、1894年(明治27年)12月9日 – 1978年(昭和53年)1月5日、本名象二)は、主に昭和に活躍した日本の陶芸家。

「良い土から悪い物をつくるよりも、劣った土で良い仕事をする方を選ぶ」という浜田庄司は「願は大きく立てよ。立てたら向きは変えるな。あとは非妥協一本やりでいけ」というそのままの人生を送った。願とは志のことだ。大きく高い志を立てて、自分に妥協せず、方向感を大切に歩むことが大切だであることを教えてくれる。

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12月8日 嵐寛寿郎(映画俳優、映画プロデューサー)

この世界には、一つきり思想あらしまへん、ウンおもろいやないか、よっしゃ、それゆこう、と

嵐 寛壽郎(あらし かんじゅうろう、新字体:寛寿郎、1902年12月8日 – 1980年10月21日)は、日本の映画俳優、映画プロデューサーである。

私生活では5回の結婚と4回の離婚とを繰り返したが、別れるたびに前妻に全財産と家屋敷を譲り渡していた。 金銭面には無頓着で、生涯遊べるだけの金を稼ぎながら、財産はほとんど残さなかった。贅沢が嫌いで、衣装道楽も縁がなく、和服も2、3着より持たず、背広も靴も既製品、煙草はマッチ派だった。全盛期でも自宅から撮影所まで自家用車を使わず京福電鉄嵐山線を利用、戦後はもっぱら円タクを使った。嵐寛寿郎は俳優の仕事も私生活も「ウンおもろいやないか」の思想で過ごしたのである。

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12月7日 俵萌子(評論家・エッセイスト)

肝心なのは、より高く高くと、自ら求めて変わっていくこと

俵 萠子(たわら もえこ、1930年12月7日 – 2008年11月27日)は、日本の評論家・エッセイスト。

「より高く高くと、自ら求めて変わっていくこと」という俵萌子の生き方に学びたい。

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12月6日 仁科芳雄(物理学者)

環境は人を創り、人は環境創る

仁科 芳雄(にしな よしお、1890年(明治23年)12月6日 – 1951年(昭和26年)1月10日)は、日本の物理学者である。日本に量子力学の拠点を作ることに尽くし、宇宙線関係、加速器関係の研究で業績をあげた。日本の現代物理学の父である。

長岡半太郎、仁科芳雄、湯川秀樹、朝永振一郎、そしてノーベル賞受賞者が今日まで続いているという日本物理学の輝かしい伝統をみると、人をめぐる環境というものの大きな影響を感じる。人は時代の子であり、環境の子である。しかし一方で人は自分を巡る環境を創ることもできる。この循環の中で、人も時代も進歩していく。

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12月5日 吉本せい(吉本興業創業者、芸能プロモーター)

笑わせなあきまへんで

吉本 せい(よしもと せい、1889年12月5日 – 1950年3月14日)は、吉本興業創業者、芸能プロモーター。

吉本興業の使命は大衆を「笑わせる」ことだった。人を観る。時代を先取りする。意見をよく聞く。そしていいと思ったものは失敗を恐れず断固実行する。お笑いに人生を賭けた女大将は、「笑わせなあきまへんで」と常に言いながらお笑いの集団を組織していった。吉本せいをモデルにした2017年10月から始まったNHK朝ドラ「わろてんか」でその人生ドラマを楽しみたい。

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12月4日 リルケ(詩人、作家)

現在持っている最上の力より以下の仕事をしてはならない

ライナー・マリア・リルケ(Rainer Maria Rilke、1875年12月4日 – 1926年12月29日)は、オーストリアの詩人、作家。シュテファン・ゲオルゲ、フーゴ・フォン・ホーフマンスタールとともに時代を代表するドイツ語詩人として知られる。

小説家・野上弥生子は「現在もっている最上の力より以下の仕事をしてはならない、とするリルケの言葉は私たちも死ぬまで忘れてはならないものであろう」と述べて仕事に没頭している。「後日に思いを残す未練が生じないように、その時点において思い浮かべるすべてを書き尽くすつもりで集約の気分に発してとりかかる姿勢を常に私は基本方針としていた」と、谷沢永一がいうのと同じ厳しく固い決意である。最上の仕事の連続が生きている証となって結実するのだ。持てる力を最大限に発揮した仕事をしよう。

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12月3日 津田梅子(教育者)

何かを始めるのはやさしいが、それを継続するのは難しい。成功させるのはなお難しい

津田 梅子(つだうめこ、元治元年12月3日(1864年12月31日)-昭和4年(1929年)8月16日)は、日本の教育者。日本における女子教育の先駆者。岩倉使節団に6歳の梅子は随行し渡米。二度の留学後、1900年に女子英学塾(現・津田塾大学)を設立し、塾長。

何かをおもいついて始めるが、いつのまにか霧消。気がつけば、やりっ放しの痕跡だらけ。常に困難が襲ってくるし、自分の側にも様々な事情が降ってくる。だから何ごとも続けるのはまことに難しい。誰の目にも見えるように成功させるには、長い時間をかけてさらに幾多の困難を克服していかねばならない。津田梅子の女子英学塾の設立は、周囲の無理解と自身の無力感を克服していく難事業であっただろうことがわかる。冒頭の言葉は、その津田梅子の言であるだけに心打たれるものがある。

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12月2日 ヴェルニー(技術者)

政治的事件のとばっちりを受けたものの、事業中断はできない

フランソワ・レオンス・ヴェルニー(Francois Leonce Verny 、1837年12月2日 – 1908年5月2日)はフランスの技術者。1865年から1876年にかけて横須賀造兵廠、横須賀海軍施設ドックや灯台、その他の近代施設の建設を指導し、日本の近代化を支援した。

大隈重信が後年、「明治政府の近代化政策は、小栗忠順の模倣にすぎない」と発言しているように、ヴェルニーは小栗と二人三脚で大事業を完成させた。今でも横須賀湾に面したところにヴェルニー公園があり、ヴェルニーと小栗の銅像が並んで建っており、二人の功績をたたえている。そしてその一角に瀟洒なヴェルニー記念館が建っている。日本にとって意義の高いプロジェクトを中断させなかったお雇い外国人の心意気には感謝しなくてはならない。

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