3月16日 若乃花(初代)(第45代横綱)

相撲道は辛抱して自分で切り開いていくもの、誰も手とり足とり教えてくれはしない。15尺の土俵。あの中にはなんでも落ちている。女房、金、ダイヤモンド、全てがある。全人生がある

初代 若乃花 幹士(わかのはな かんじ)本名:花田 勝治(はなだ かつじ)、1928年(昭和3年)3月16日 – 2010年(平成22年)9月1日)は、第45代横綱。身長179cm、体重107kg。土俵の鬼と呼ばれた。戦後最軽量横綱である。引退後二子山部屋を創設し、弟である大関・初代貴ノ花、横綱・二代若乃花、横綱・隆の里、大関・若嶋津らを育て、日本相撲協会の理事長もつとめた。第65代横綱貴乃花、第66代横綱若乃花は甥。

土俵の鬼・若乃花は、小さな土俵には人生の全てがつまっているという。土俵のけがを土俵の砂でなおしながら、すべてを摘み取った男の名言である。

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3月15日 伊波普猷(民俗学者、言語学者)

深く掘れ己の胸中の泉、余所たゆて水や汲まぬごとに

伊波 普猷(いは ふゆう、1876年(明治9年)3月15日 – 1947年(昭和22年)8月13日)は、沖縄県那覇市出身の民俗学者、言語学者、沖縄学の父として知られる。

この言葉はニーチェの警句「汝の立つ所を深く掘れ、其處処には泉あり」を愛した伊波普猷が沖縄語に翻案した琉歌である。自分の源を深く深く掘れ。己の立つ場所を深く掘りきった人の言である。

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3月14日 島津斉彬(大名、薩摩藩藩主)

西洋人も人なり、佐賀人も人なり、薩摩人も人なり、くじけずに研究せよ

島津斉彬(しまづ なりあきら、文化6年3月14日(1809年4月28日)〜安政5年7月16日(1858年8月24日))は、江戸時代後期から幕末の外様大名で、薩摩藩の第11代藩主。
西洋事情に明るく進取の気性に富み、大規模な藩政改革を実施。集成館を興し、反射炉、ガラス工場、洋式紡績所などを設置。西洋式軍艦・昇平丸を幕府に献上した。将軍後継問題では一橋派に属し、井伊直弼と対立。享年50歳。

この言葉は薩摩藩が反射炉建設にあたって言ったとされる言葉である。人ができたことは、自分たちにできないはずはない。こういって部下を激励し、そこで培った勢力が明治維新を断行した。「君主は愛憎で人を判断してはならない」とも言ったのだが、そのため薩摩藩は多くの人材を維新と明治時代に供給できたのである。

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3月13日 大山康晴(将棋棋士)

賞はごほうびではなく、激励のしるしである

大山 康晴(おおやま やすはる、1923年(大正12年)3月13日 – 1992年(平成4年)7月26日)は、将棋棋士。主な記録としては、公式タイトル獲得80期(歴代2位)、一般棋戦優勝44回(歴代1位)、通算1433勝(歴代1位)等がある。十五世名人、および、永世十段・永世王位・永世棋聖・永世王将という、5つの永世称号を保持。倉敷市および青森県百石町の名誉市民・名誉町民。

もらう賞はごほうびではない。激励にこたえてさらに磨きをかけていこう。この心構え、恐るべし。こういう人には誰もかなわない。29歳で名人位に就いた天才棋士という華やかな経歴にももちろん尊敬の念を覚えるが、むしろ、50歳で無冠になってからの大山の心構え、心掛け、そしてその後の棋士としての生き方に興味を覚える。若い時代の黄金の輝きとは違った、燻し銀の重厚な輝きこそ偉大である。大山の50代以降の仕事と人生への対処は、現代に生きる私たちに大いなる勇気を与えてくれる。

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3月12日 植村甲五郎(財界人、官僚)

何事も付け焼刃ではモノにはならない

植村 甲午郎(うえむら こうごろう、1894年(明治27年)3月12日 – 1978年(昭和53年)8月1日)は、昭和初期から後期(1920年代 – 1970年代)の財界人、官僚。札幌オリンピック組織委員会会長。第3代経済団体連合会(経団連)会長(1968年(昭和43年) – 1974年(昭和49年) )。

経歴をみると非の打ち所の無いように見えるが、そうでもなかった。慶應幼稚舎→普通部コースではなく、府立一中に入学。勉学に身が入らなかったが、中学四年次に将来展望に焦りを感じ、勉学に邁進。一高受験で失敗し一年間浪人した。一高入学試験の論作文に、山の手・お坊っちゃん育ちの薄弱な人生経験不足を痛感し、「何事も付け焼刃ではモノにはならない」との教訓を得て、その教訓を生かしたのである。 松本清張の小説「深層海流」のモデルは植村甲五郎である。

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3月11日 徳川斉昭(大名、水戸藩藩主)

何事にても、我より先なる者あらば、聴くことを恥じず

徳川 斉昭(とくがわ なりあき、寛政12年3月11日(1800年4月4日) – 万延元年8月15日(1860年9月29日))は、江戸時代後期の大名(親藩)。常陸水戸藩の第9代藩主。江戸幕府第15代(最後)の将軍・徳川慶喜の実父である。

徳川光圀と共に、茨城県の常磐神社に祭神として祀られている斉昭は、進取の気象に富んでいた。茨城名産のコンニャクは斉昭の勧めで始められたものであるし、また農民を語る時には「お百姓」と呼んで大事にしていた。斉昭は新知識獲得のためには、プライドを捨てて教えを請うた。生涯に男女あわせて37人の子供を設けている精力的な斉昭の活動は豊富な知識量と強い信念に支えられていたから迫力があり、幕末に光芒を放ったのである。

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3月10日 原安三郎(実業家)

いつでも平常心を持って急迫の事態にも冷静に対応し、判断せよ

原 安三郎(はら やすさぶろう、1884年3月10日 – 1982年10月21日)は日本の実業家。日本化薬会長、東洋火災海上保険株式会社(現・セコム損害保険)初代会長、日本化学工業協会会長、政府税制調査会会長などを歴任し、日本財界の重鎮として活躍した。

いかなる場合でも平常心を維持し、常に冷静な判断ができる。それはよほど人物ができていないとむずかしい。人生に処す原理原則、座右の銘、プリンシプル、そういうもので自らを常に磨き上げていく、それが大人物への道であろう。

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3月9日 梅原龍三郎(洋画家)

葬式の類は一切無用のこと。弔問、供物の類はすべて固辞すること。生者は死者のためにわずらわさるべきにあらず

梅原 龍三郎(うめはら りゅうざぶろう、1888年(明治21年)3月9日 – 1986年(昭和61年)1月16日)は、日本の洋画家。ヨーロッパで学んだ油彩画に、桃山美術・琳派・南画といった日本の伝統的な美術を自由奔放に取り入れ、絢爛な色彩と豪放なタッチが織り成す装飾的な世界を展開。昭和の一時代を通じて日本洋画界の重鎮として君臨した。

家族だけの葬儀ですますことを遺言した偉人はいるが、その理由まで記した人はみかけない。遺言における葬儀の指示には、その人の人生観があらわれる。

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3月8日 水上勉(小説家)

西方浄土などはなくて、永遠にここは地獄である。それなら、地獄の泥を吸って滋養となし、私は長生きしたい

水上 勉(みずかみ つとむ、みなかみ つとむ、1919年(大正8年)3月8日 – 2004年(平成16年)9月8日)は、日本の小説家。

水上勉がたどり着いたのは、冒頭の地獄論の心境である。生きることと死ぬことを対立的に考えず、今、ここにあることが生命の全体だとも語っている。壮絶な人生を生きたこの苦労人は、「ただひたすら生きよ」と教えてくれる。

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3月7日 中江藤樹(陽明学者)

苦しみを去って楽しみを求むる道はいかん。答えて曰く、学問なり

中江 藤樹(なかえ とうじゅ、慶長13年3月7日(1608年4月21日) – 安元年8月25日(1648年10月11日))は、近江国(滋賀県)出身の江戸時代初期の陽明学者。近江聖人と称えられた。

朱子学を学んだ後に王陽明の「知行合一」説に傾倒し、わが国で初めて陽明学を唱えた中江藤樹は生涯、民間にあって身を終わっている。盗賊を感化し、また山で薪をとる者も、田畑を耕す者も、遠村から老若男女が訪れて市井の聖人・藤樹の話に聞き入った。
中江藤樹は人の道を説く学問の楽しみを庶民に伝えようとしたのである。

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