2月25日 ジョン・フォスター・ダレス(政治家)

成功の程度を測る尺度は、どんなむずかしい問題を解決したかではない。去年と同じ問題が今年もまた持ち上がっていないかどうかである

ジョン・フォスター・ダレス(1888年2月25日-1959年5月24日)は、アメリカ合衆国の政治家。日米安保条約の生みの親とされる。1952年から1959年までアイゼンハワー大統領の下で国務長官をつとめた。

歴史のなかで賛否両論の評価はあるが、ダレスは稀にみる仕事師であったことは間違いない。冒頭の言葉には、ダレスの仕事ぶりの真髄が垣間見える。難問の解決で喝采を浴びるのではなく、眼前にあらわれる問題に対応し解いて、1年後にまた同じ問題が登場しないように、踏み固めていくのが組織の進歩を意味するのだ。

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2月24日 スティーブ・ジョブス(実業家、資産家、作家、教育者)

ベストを尽くして失敗したら、ベストを尽くしたってことさ

スティーブン・ポール・“スティーブ”・ジョブズ(Steven Paul “Steve” Jobs、1955年2月24日 – 2011年10月5日)は、アメリカ合衆国の実業家、資産家、作家、教育者である。アップル社の共同設立者の一人である。アメリカ国家技術賞を受賞している。

「とにかくつくってみんなに見せ、どう思う?と聞くしかありません」
「残りの人生も砂糖水を売ることに費やしたいか、それとも世界を変えるチャンスが欲しいか?」
「イノベーションは、研究開発費の額とは関係がない。、、、、大事なのは金ではない。抱えている人材、いかに導いていくか、どれだけ目標を理解しているかが重要だ」
「仏教には『初心』という言葉があるそうです。初心をもっているのは、すばらしいことだ」

iPod、iPad、iPhoneの発明者・スティーブ・ジョブスは名言の宝庫だ。

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2月23日 本多光太郎(物理学者、金属工学者)

産業は学問の道場なり

本多 光太郎(ほんだ こうたろう、明治3年2月23日(1870年3月24日) – 昭和29年(1954年)2月12日)は、日本の物理学者、金属工学者(冶金学者)。

実学の伝統のある東北大学の土台をつくった本多光太郎は、「産業は学問の道場なり」との含蓄のある名言を吐いている。現実の産業界の問題を解決しようと努力する過程で学問が磨かれていくのだ。学界と産業界のあるべき関係を見事に言い当てている。産学連携の場は、学問を志す者を鍛える道場である。

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2月22日 高浜虚子(俳人、小説家)

春風や 闘志抱きて 丘に立つ

高浜 虚子(たかはま きょし、1874年(明治7年)2月22日 – 1959年(昭和34年)4月8日)は明治・昭和期の俳人・小説家。本名は高浜 清)。俳誌「ホトトギス」の理念となる「客観写生」「花鳥諷詠」を提唱したことでも知られる。

虚子には名句は多いが、冒頭に紹介した「春風や 闘志抱きて 丘に立つ」が私は好きだ。俳句改革に向けての決意がみなぎるいい句だ。自らの人生も、仕事も、こういう覚悟と闘志で臨みたいものである。

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2月21日 永田耕衣(俳人)

大したことは、一身の晩年をいかに立体的に充実して生きつらぬくかということだけである。一切のムダを排除し、秀れた人物に接し、秀れた書を読み、秀れた芸術を教えられ、かつ発見してゆく以外、充実の道はない

永田 耕衣(ながた こうい、1900年(明治33年)2月21日 – 1997年(平成9年)8月25日)は、俳人。禅的思想に導かれた独自の俳句理念に基づき句作。また諸芸に通じ書画にも個性を発揮、90歳を超えた最晩年に至るまで旺盛な創作活動を行った。

俳人・永田耕衣の晩年は職業生活よりも長く40年以上もあった。余生などではまったくない。本舞台だった。55歳まではそのための準備期間ともいえる。ここに大いなる晩年を生きた先達の姿がある。

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2月20日 石川啄木(歌人、詩人)

詩はいわゆる詩であってはいけない。人間の感情生活の変化の厳密なる報告、正直なる日記でなければならぬ

石川 啄木(いしかわ たくぼく、1886年(明治19年)2月20日 – 1912年(明治45年)4月13日)は、日本の歌人、詩人。

ピカソが絵を描くのと同じように、啄木にとっての詩は日記であった。詩は短いから人々の印象に強く残る。「俳句はやっぱり『小さすぎ』ないだろうか」と言ってた寺山修司が晩年にはもっと俳句をやっていればよかったと後悔したように、短詩は長い時間を生き抜いていく。26歳の短い人生であった啄木が書いた日々の日記は長い命を保っている。

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2月19日 コペルニクス(天文学者、カトリック司祭)

太陽は宇宙の中心であって不動であり、太陽の運動と見えるものは全て実は地球の運動である

ニコラウス・コペルニクス(ラテン語名: Nicolaus Copernicus、ポーランド語名: ミコワイ・コペルニク Mikołaj Kopernik、1473年2月19日 – 1543年5月24日)は、ポーランド出身の天文学者、カトリック司祭である。当時主流だった地球中心説(天動説)を覆す太陽中心説(地動説)を唱えた。これは天文学史上最も重要な発見とされる。

今となっては、「太陽は宇宙の中心であって不動であり」は間違いであった。しかし地動説は常識となった。後にカントが対象の認識は主観の構成によって初めて可能だとする自らの哲学を天動説から地動説への転回にたとえコペルニクス的転回と呼んだ。40歳前に地動説を確信し、70歳で亡くなるまでその説を深化させ大部の書物にまとめあげる。そして死と同時に、衝撃の書を発表するコペルニクスの人生戦略にも驚かされる。

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2月18日 高村光雲(仏師、彫刻家)

芸術というものは、時には嘘でもよいのだ。その嘘を承知の上で作った方がかえって本当に見えるんだ

高村 光雲(たかむら こううん、嘉永5年2月18日(1852年3月8日) – 昭和9年(1934年)10月10日)は、日本の仏師、彫刻家。高村光太郎、高村豊周は息子。

本日横浜美術館の「篠山紀信 写真力」をみたが、その篠山紀信は人物写真では「仮面の上に仮面をつけることこそ、その人のリアリティを獲得することだと思っている」と語っている。そして「いや、(写真は)芸術よりももっと上にあるものでしょう、、写真はもっともっと大きなものです」と信じ現代を疾走する写真家・篠山紀信。嘘を承知で創るほうが、リアリティがでて本当になる。明治の木彫のトップ・高村光雲は同じことを言っている。

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2月17日 シーボルト(医師、博物学者)

日本人は広々とした自然にひたって楽しむことを心から愛している

フィリップ・フランツ・バルタザール・フォン・シーボルト(Philipp Franz Balthasar von Siebold, 1796年2月17日 – 1866年10月18日)は、ドイツの医師・博物学者。

1859年、日本を去って約30年後に追放令を解かれたシーボルトは長男を伴って再来日する。いねは32歳で日本初の産科医となっていた。日本では幕府の顧問となってアドバイスをするなど3年滞在している。長男はそのまま日本に残っている。シーボルトは帰国後も日本のために様々な計画を練っている。70歳で没する前「わたしは平和の国へ行く」とつぶやいたという。それは日本のことだろう。亡くなったのは1866年だから明治維新の直前である。

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2月16日 大岡信(詩人、評論家)

成功も悪くはない。悪いのはただ、飲めば飲むほど渇きを産む塩水なのだ、成功は

大岡 信(おおおか まこと、1931年2月16日 – 2017年4月5日)は、日本の詩人、評論家。東京芸術大学名誉教授。日本ペンクラブ元会長。

小さい成功をすると脳にドーパミンがでる。そして他人から小さく賞賛される。ドーパミンの量を増やしたくなってより大きな成功を欲しくなる。その繰り返しは悪くはないはずだが、大岡はその連鎖には気をつけろという。いつまでもその環のなかであがき続けることはやめて、本当にやるべきことに集中すべきなのだ。人々の反応には反応せずに、ひたすら仕事を続けよう。

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