3月13日 大山康晴(将棋棋士)

賞はごほうびではなく、激励のしるしである

大山 康晴(おおやま やすはる、1923年(大正12年)3月13日 – 1992年(平成4年)7月26日)は、将棋棋士。主な記録としては、公式タイトル獲得80期(歴代2位)、一般棋戦優勝44回(歴代1位)、通算1433勝(歴代1位)等がある。十五世名人、および、永世十段・永世王位・永世棋聖・永世王将という、5つの永世称号を保持。倉敷市および青森県百石町の名誉市民・名誉町民。

もらう賞はごほうびではない。激励にこたえてさらに磨きをかけていこう。この心構え、恐るべし。こういう人には誰もかなわない。29歳で名人位に就いた天才棋士という華やかな経歴にももちろん尊敬の念を覚えるが、むしろ、50歳で無冠になってからの大山の心構え、心掛け、そしてその後の棋士としての生き方に興味を覚える。若い時代の黄金の輝きとは違った、燻し銀の重厚な輝きこそ偉大である。大山の50代以降の仕事と人生への対処は、現代に生きる私たちに大いなる勇気を与えてくれる。

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3月12日 植村甲五郎(財界人、官僚)

何事も付け焼刃ではモノにはならない

植村 甲午郎(うえむら こうごろう、1894年(明治27年)3月12日 – 1978年(昭和53年)8月1日)は、昭和初期から後期(1920年代 – 1970年代)の財界人、官僚。札幌オリンピック組織委員会会長。第3代経済団体連合会(経団連)会長(1968年(昭和43年) – 1974年(昭和49年) )。

経歴をみると非の打ち所の無いように見えるが、そうでもなかった。慶應幼稚舎→普通部コースではなく、府立一中に入学。勉学に身が入らなかったが、中学四年次に将来展望に焦りを感じ、勉学に邁進。一高受験で失敗し一年間浪人した。一高入学試験の論作文に、山の手・お坊っちゃん育ちの薄弱な人生経験不足を痛感し、「何事も付け焼刃ではモノにはならない」との教訓を得て、その教訓を生かしたのである。 松本清張の小説「深層海流」のモデルは植村甲五郎である。

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3月11日 徳川斉昭(大名、水戸藩藩主)

何事にても、我より先なる者あらば、聴くことを恥じず

徳川 斉昭(とくがわ なりあき、寛政12年3月11日(1800年4月4日) – 万延元年8月15日(1860年9月29日))は、江戸時代後期の大名(親藩)。常陸水戸藩の第9代藩主。江戸幕府第15代(最後)の将軍・徳川慶喜の実父である。

徳川光圀と共に、茨城県の常磐神社に祭神として祀られている斉昭は、進取の気象に富んでいた。茨城名産のコンニャクは斉昭の勧めで始められたものであるし、また農民を語る時には「お百姓」と呼んで大事にしていた。斉昭は新知識獲得のためには、プライドを捨てて教えを請うた。生涯に男女あわせて37人の子供を設けている精力的な斉昭の活動は豊富な知識量と強い信念に支えられていたから迫力があり、幕末に光芒を放ったのである。

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3月10日 原安三郎(実業家)

いつでも平常心を持って急迫の事態にも冷静に対応し、判断せよ

原 安三郎(はら やすさぶろう、1884年3月10日 – 1982年10月21日)は日本の実業家。日本化薬会長、東洋火災海上保険株式会社(現・セコム損害保険)初代会長、日本化学工業協会会長、政府税制調査会会長などを歴任し、日本財界の重鎮として活躍した。

いかなる場合でも平常心を維持し、常に冷静な判断ができる。それはよほど人物ができていないとむずかしい。人生に処す原理原則、座右の銘、プリンシプル、そういうもので自らを常に磨き上げていく、それが大人物への道であろう。

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3月9日 梅原龍三郎(洋画家)

葬式の類は一切無用のこと。弔問、供物の類はすべて固辞すること。生者は死者のためにわずらわさるべきにあらず

梅原 龍三郎(うめはら りゅうざぶろう、1888年(明治21年)3月9日 – 1986年(昭和61年)1月16日)は、日本の洋画家。ヨーロッパで学んだ油彩画に、桃山美術・琳派・南画といった日本の伝統的な美術を自由奔放に取り入れ、絢爛な色彩と豪放なタッチが織り成す装飾的な世界を展開。昭和の一時代を通じて日本洋画界の重鎮として君臨した。

家族だけの葬儀ですますことを遺言した偉人はいるが、その理由まで記した人はみかけない。遺言における葬儀の指示には、その人の人生観があらわれる。

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3月8日 水上勉(小説家)

西方浄土などはなくて、永遠にここは地獄である。それなら、地獄の泥を吸って滋養となし、私は長生きしたい

水上 勉(みずかみ つとむ、みなかみ つとむ、1919年(大正8年)3月8日 – 2004年(平成16年)9月8日)は、日本の小説家。

水上勉がたどり着いたのは、冒頭の地獄論の心境である。生きることと死ぬことを対立的に考えず、今、ここにあることが生命の全体だとも語っている。壮絶な人生を生きたこの苦労人は、「ただひたすら生きよ」と教えてくれる。

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3月7日 中江藤樹(陽明学者)

苦しみを去って楽しみを求むる道はいかん。答えて曰く、学問なり

中江 藤樹(なかえ とうじゅ、慶長13年3月7日(1608年4月21日) – 安元年8月25日(1648年10月11日))は、近江国(滋賀県)出身の江戸時代初期の陽明学者。近江聖人と称えられた。

朱子学を学んだ後に王陽明の「知行合一」説に傾倒し、わが国で初めて陽明学を唱えた中江藤樹は生涯、民間にあって身を終わっている。盗賊を感化し、また山で薪をとる者も、田畑を耕す者も、遠村から老若男女が訪れて市井の聖人・藤樹の話に聞き入った。
中江藤樹は人の道を説く学問の楽しみを庶民に伝えようとしたのである。

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3月6日 ミケランジェロ(彫刻家、画家、建築家、詩人)

最大の危険は、目標が高すぎて、達成出来ないことではない。目標が低すぎて、その低い目標を、達成してしまうことだ

ミケランジェロ・ディ・ロドヴィーコ・ブオナローティ・シモーニ(1475年3月6日 – 1564年2月18日)は、イタリア盛期ルネサンス期の彫刻家、画家、建築家、詩人。

目標が高すぎることは悪くない。なぜなら達成が難しいからだ。目標が低すぎるのは危険だ。やすやすと達成してしまうからだ。低すぎず、高すぎない目標、そういうレベルの目標を設定することだ。低い目標を掲げるのは最も危険である。万能の人の仕事論がここにある。

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3月5日 奥村綱雄(実業家)

運と災難は紙一重である

奥村 綱雄(おくむら つなお、1903年(明治36年)3月5日 – 1972年(昭和47年)11月7日)は、昭和期の実業家。野村證券元社長・会長。野村證券中興の祖と言われる。

1946年の公職追放で経営陣が退陣することになり、出世が遅れていた奥村は追放を免れ、専務を経て、2年後には45歳の若さで社長に就任する。まさに運命は紙一重である。トップにならんとして討ち死にした人には未練が残るが、たまたまその役割がまわってきて名経営になることがある。奥村もそうだが、そういう人はその運を全体のために思い切って使ったのだろう。

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3月4日 有島武郎(小説家)

小さき者よ。不幸な而して同時に幸福なお前たちの父と母との祝福を胸にしめて人の世の旅に登れる前途は遠い。而して暗い。然し恐れてはならぬ。恐れない者の前に道は開ける。行け。勇んで。小さき者よ

有島 武郎(ありしま たけお、1878年(明治11年)3月4日 – 1923年(大正12年)6月9日)は、日本の小説家。代表作に『カインの末裔』『或る女』や、評論『惜みなく愛は奪ふ』がある。

有島武郎は軽井沢の別荘・浄月庵で人妻である婦人公論の記者・波多野秋子と心中して45歳で亡くなっているのだが、27歳で亡くなった妻・安子との間に設けた子らに冒頭の言葉を示している。人の世の旅を照らす灯りはなく暗い、そして遠いが、勇気を携えて恐れずに行け、その先に道がある。

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