1月12日 深作欣二(映画監督、脚本家)

いや、オレは過去を振り返るんではなく、若いヤツとやりたいんだ

深作 欣二 (ふかさく きんじ、1930年〈昭和5年〉7月3日 – 2003年〈平成15年〉1月12日) は、日本の映画監督・脚本家。

最後の作品『バトル・ロワイアルⅡ 鎮魂歌』の企画発表会では「最後の映画としてガンに犯された体の満身創痍で臨む。今回は戦争がテーマ。戦争撮ったことがないので、最後に撮りたい」と覚悟を淡々と語った。「たとえこの闘いで生涯を終えようとも、私には一片の悔いもない」と会場で配った「深作欣二、死後の闘い」というタイトルで、このメッセージがつづられている。その深作が今まで一緒に映画をつくってきた大物俳優たちとやるべきだという息子の監督・健太に言った言葉が冒頭の言葉である。過去の集大成の作品を作るのではなく、未来に向けて新しいテーマで作品を撮ろうという気迫あふれた言葉であり、感銘を受ける。

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1月11日 淡路恵子(女優)

体から心まで、とにかく自分のことは自分で管理していないと、女優はつとまらないわよね

淡路 恵子(あわじ けいこ、1933年(昭和8年)7月17日 – 2014年(平成26年)1月11日)は、日本の女優。

淡路恵子は自己管理の人だった。自己管理をしっかりすることが大事だ。人に迷惑をかけないこと。舞台中は規則正しい生活を心がけること。出演中は声を使いすぎないように酒を飲みにいかないこと。睡眠は8時間以上とること。役柄からはなかなか想像できないが、実はそういうことを自らに課していた。淡路恵子は仕事師であったのだ。

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1月10日 松本重治(ジャーナリスト)

日米関係は日中関係である

松本 重治(まつもと しげはる、1899年(明治32年)10月2日 – 1989年(平成元年)1月10日)は、日本のジャーナリスト。財団法人「国際文化会館」理事長。アメリカ学会の会長。

松本重治が館長を務めていた六本木の国際文化会館。日航時代はこの会館には縁があってよく訪れていたが、ここを舞台に日中・日米関係を中心に国際関係の歴史がつくられていったのだと改めて松本重治らの仕事に敬意を抱いた。

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1月9日 福井謙一(化学者)

自分のやりたい学問と距離のある学問であればあるほど、後になって創造的な仕事をする上で重要な意味をもってくる

福井 謙一(ふくい けんいち、1918年10月4日 – 1998年1月9日)は、日本の化学者。京都大学・京都工芸繊維大学名誉教授。日本学士院会員、ローマ教皇庁科学アカデミー会員、全米科学アカデミー外国人客員会員。

福井謙一には広い分野に関する旺盛な好奇心があった。学生時代は文学部での田辺元の哲学の講義を聴いた。11歳年長で日本人初のノーベル賞(物理学賞)を得た湯川秀樹が西田幾多郎の哲学講義を聴いたのと同じだ。福井は他分野にも好奇心を持つことが創造に繋がると言っている。そして疲れるということがわからないというほどの体力をもって、29年にわたり長い間執念深く自分のテーマを追い続けたのだ。

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1月8日 横澤彪(テレビプロデューサー)

(発想のもとになっているのは)少数派ですよ。絶対多数派にいつかない

横澤 彪(よこざわ たけし、1937年12月15日 – 2011年1月8日)は、日本の元テレビプロデューサー。フジテレビプロデューサーとして活躍。退社後は吉本興業東京本社代表、専務取締役東京本部本部長などを歴任した。

横澤彪という異能の人は、「笑いを通して社会に貢献」しようと考え、テレビ、吉本興業と一貫して「お笑い」に賭けた職業人生を全うしている。この革命児は、常に「少数」の側に立って、新しいスタイルを追求していった。多数の側によるな。横並びを排せ。先人のマネをするな。そして先人の目指したものを目指して革命を起こせ。冒頭の言葉は、新しいことを始めようとする人にとって大いなる激励である。

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1月7日 小西和人(新聞記者、編集者)

釣りに国境なし

小西 和人(こにし かずひと、1927年1月11日 – 2009年1月7日)は日本の新聞記者、編集者。週刊釣りサンデーを創刊して会長。全日本サーフキャスティング連盟第2代会長。

1926年(昭和2年)生まれの釣り界の風雲児、革命児の小西和人は、自宅のソファで眠るように逝去した。享年81。この小西和人の釣り一筋の人生行路とその記録を読むと、歴史を書いた人が歴史をつくるのだ、そういう感慨がある。どのような分野においても歴史を残さねばならない。

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1月6日 加藤芳郎(漫画家、放送タレント)

ちょっとだけ一生懸命という余裕があると、物の本質や形がわりと見えてくるものだ

加藤 芳郎(かとう よしろう、1925年6月25日 – 2006年1月6日)は、日本の漫画家、放送タレント。

一つのことを長く続ければチャンスに巡り会える。加藤芳郎が漫画家になったのも、タレントとして親しまれたのも、長く続けたからだ。運もツキも長もちの結果として手に入る。人生は何もしないと長すぎるし、しかし何かをしようとすると短すぎるのだが、加藤芳郎は漫画という本職と、それが引き寄せたテレビタレントの二足を履き、心の余裕を持ち続けることができた。「ちょっとだけ一生懸命」の精神で、バランスのとれた80年の人生を送たのだろう。

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1月5日 長井勝一(編集者、実業家)

商業誌なのにもうける気はなく、原稿料さえろくに払えない。それでも根っからの漫画好きが集まって、ここまで来た。やめたくてもやめさせてもらえなくてね

長井 勝一(ながい かついち、1921年4月14日 – 1996年1月5日)は、日本の編集者、実業家である。青林堂の創業者であり、漫画雑誌 『月刊漫画ガロ』の初代編集長。

長井勝一が創刊した漫画雑誌『ガロ』は漫画人たちを生んだ優れたインフラだったと思う。後に大家になっていく漫画家たちはそのインフラで思う存分に才能を開花させた。一番偉かったのはそういう漫画雑誌『ガロ』を創刊し維持し続けた長井勝一だったのではないだろうか。やめたくてもやめられなくなってしまったと本人が述懐しているように、インフラによってコンテンツが花開き、コンテンツの隆盛によってインフラの価値がさらに高まっていくという好循環。この構図はいつの時代も変わらない。

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1月4日 鳥居民(歴史作家、評論家)

なぜ、『昭和二十年』書こうと考えたのか。多くの人々が命を奪われ、多くの人々が自らの命を断った年である。親は子に先立たれ、妻は夫を奪われ、子は親を失い、親と子が死んだ年である。そのような年は他にはない。その年はどういう年だったかを探ろうとした

鳥居 民(とりい たみ、男性、1929年(昭和4年) – 2013年(平成25年)1月4日)は、日本の歴史作家・評論家。

鳥居民は昭和20年の1月1日から7月2日までを書いた。1985年の56歳から、2012年の83歳までという長い時間をかけて「昭和二十年」を執念深く追い続けた。そして2013年1月4日に心筋梗塞で84歳で死去し、この大著はついに未完に終わった。鳥居の戦死ともいうべき人生を眺めると、ライフワークと寿命との関係を考えさせられる。

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1月3日 河原淳(イラストレーター、デザイナー)

ぼくの人生はおおかたのぞきに費やされてきました

河原 淳(かわはら じゅん 1929年11月28日- 2006年1月3日)は、日本のイラストレーター、デザイナー。

河原淳は『雑学人生のすすめ』の「あとがき=執筆顛末記」で、自身をピーピング・トム氏と呼びながら、本、雑誌、新聞、ちらし、DM、テレビ、映画、音楽会、美術展、陳列棚、ウインドー、公衆便所、ときにスカート、他家の窓や洗濯物、、などをのぞきの対象としてきたと述懐している。その習性で雑学が身につき、世の中を渡る武器となり、「中産階級の松クラス」に属すことになったと述べている。好奇心と面白がる精神で、好きなこと、面白そうなことだけに取り組んだ生涯を送った。こういう人生もある。

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