2月29日 鏡里喜代治(元大相撲力士)

10番勝てない時だ

鏡里 喜代治(かがみさと きよじ、1923年4月30日 – 2004年2月29日)は、青森県三戸郡斗川村(現・青森県三戸郡三戸町)出身の元大相撲力士。第42代横綱。

1958年1月場所で不振だった鏡里へマスコミが横綱の責任とは具体的には何かと問い、「10勝勝てない時」に責任を果たせたとは言えないと回答。10勝にわずか1勝届かなかったため、潔く引退。 出処進退のきれいな有言実行の横綱だった。

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2月28日 山下俊彦(実業家)

一番気を付けなければならないのは報告ですね。それも、相談する形で報告するのが、一番大切です

山下 俊彦(やました としひこ、1919年7月18日 ‐ 2012年2月28日)は、日本の実業家。松下電器産業株式会社(現・パナソニック株式会社)の3代目社長。

山下俊彦は若い頃から「仕事は仕事、人生は人生」と割り切り、本をよみ、山に登り、碁を打った。自分の時間を大事にした人だ。社長になってからも、「(創業者に)気配りなんかしていたら、仕事にならんですよ」と思い切って仕事をした。仕事に関する名言が多いが、特に「相談するという形で報告する」という知恵には同意する。そして山下俊彦は楽観的な精神で社長業をこなし、終わったら会長にはならずに、相談役に退いている。この人には何か人間としての健やかさを感じる。

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2月27日 西田善夫(スポーツ評論家、NHKアナウンサー)

笑顔の優勝です。泣かない優勝です

西田 善夫(にしだ よしお、1936年2月8日 – 2016年2月27日)は、日本のスポーツ評論家。NHKアナウンサー。

西田は1976年のモントリオールでは女子バレーの決勝戦を担当し、山田重雄率いる新・東洋の魔女の優勝時に、「笑顔の優勝です。泣かない優勝です」と実況した。それまでの優勝者は必ず泣いていたのだ。西田善夫の名実況は「泣く」がキーワードだった。2018年の平昌オリンピックが終了したばかりだが、時代が変わり、泣く人もいれば笑う人もいる。アスリートたちが活躍する名場面と実況は多くの人に感動を与え長く記憶に残る。時代と人物と歴史的場面にに立ち会うアナウンサー、特にスポーツアナウンサーという仕事の面白みはそこにある。

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2月26日 宮脇俊三(編集者、紀行作家)

彼ら(車窓風景)は見てくれと私に言う。しかし同時に、おれのことをお前、書けるのか、と言っているように思われる

宮脇 俊三(みやわき しゅんぞう、1926年12月9日 – 2003年2月26日)は、日本の編集者、紀行作家。

宮脇俊三はのめり込んだ対象(車窓風景)から、「おれのことをお前、書けるのか」と挑まれている。ある対象(例えば人物)に惚れて没頭してそれをまとめようとするとき、その擬人化された対象から「俺を書けるか?」と挑戦される心持ちがするときが私にもある。宮脇に倣って「人物記念館極道(?)」への道を歩むことにしようか。

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2月25日 飯田龍太(俳人)

誰もが感じていながら、いままで、誰もいわなかったことを、ずばりと言い止めた俳句。それが名句の条件である

飯田龍太(いいだ りゅうた、1920年7月10日 – 2007年2月25日)は、山梨県出身の俳人。国学院大学で折口信夫門下に入る。国文学者か小説家になろうとしたが、兄3人が死に大庄屋飯田家を継ぎ、父の俳句結社「雲母」も継ぐことになった。

山梨に旅して文学館を訪れると飯田蛇笏と飯田龍太親子の本や句集が目に入る。龍太は親の七光りかと思って敬遠していたが、間違いだった。龍太は蛇笏と並ぶ、いやそれ以上の俳人だったのだ。「龍太の時代」と言われるほど、俳人だけでなく同時代の文学者たちに愛され、影響を与えている。龍太の指摘するこの名句の条件をめぐる言葉は、感じてはいたが表現できなかったことをずばりと断定してすがすがしい。

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2月24日 前畑秀子(水泳選手)

練習中、泳いでいながらプールの中で汗が流れるのがわかった

前畑 秀子(まえはた ひでこ、1914年(大正3年)5月20日 – 1995年(平成7年)2月24日)は、和歌山県伊都郡橋本町(現・橋本市)出身の水泳選手。

前畑は、 自分は天才ではなく、普通の少女であり、練習に練習を重ね、自分を鍛えたと語っている。冷たい水の中で汗が流れるのを感じる。フジヤマのトビウオ古橋が指の間に膜ができたと言っていたのを思い出す。水泳だけでなく、相撲でも野球でも名をなしたトップアスリートたちはみな「自分は天才ではない、努力型だ」というから、謙遜ではなく実際にそうなのだろう。

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2月23日 片倉もと子(民族学者、文化人類学者)

砂漠のままの文化を大切にしたい

片倉 もとこ(かたくら もとこ=素子=・旧姓新谷、1937年10月17日 – 2013年2月23日)は、日本の民族学者・文化人類学者。

片倉もと子は砂漠の魅力に取り憑かれた一生を送り、日本沙漠学会副会長もつとめた。砂漠文化の伝承のために遺産を寄付し、それが財団となって「志」が継続していく。

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2月22日 隅谷三喜男(経済学者)

きみたちが専門と定めたことを学ぶとともに、人間とは何であるか、人生とは何であるか、という問いについても考えてもらいたいと思う

隅谷 三喜男(すみや みきお、1916年(大正5年)8月26日 – 2003年(平成15年)2月22日)は、日本の経済学者。専門は労働経済学。

冒頭に掲げた言葉は1981年に刊行されよく読まれた岩波ジュニア新書『大学で何を学ぶか』の最後のページの言葉である。それから30数年経って、その意味も変わってきた。「専門」は他領域からの侵入によってアッという間に溶解してしまう。「人間とは何か」は、脳科学の著しい進展、AIの登場、2045年のシンギュラリティの到来予測などによって、人類にとって最大で最新のテーマとなっている。また「人生とは何か」は、人生100年時代を迎えようとしている21世紀前半の時代では、生物学的な存在の意味を超えた広大な時間と空間が、その意味を切実に問いかけてくる。隅谷の言う「人間とは」「人生とは」は、普遍的な問いかけだったのである。

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2月21日 石橋信夫(実業家、大和ハウス工業社長・会長)

私は経営を耳で学んだ。これこそ生きた経営学である。私は学問はないが「聞学(もんがく)」は習得した。これが何よりの武器なのである

石橋 信夫(いしばし のぶお、1921年9月9日 – 2003年2月21日)は、日本の実業家。大和ハウス工業の社長・会長をつとめた。

この石橋の武器は耳学問だった。それを「聞学」と呼んで意識的に精進したのだ。人に会い最先端・最前線の人々からエキスの話を聞き、考え、そしてまたカンドコロを聞き、考え抜く。こういった生きた経営学でくり返しヒットを生んでいったのである。学歴はすぐにひからびる。生涯を通じての学習歴の積み重ねこそが重要であることを石橋信夫の「聞学」は教えてくれる。

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2月20日 金子兜太(俳人)

長年の間に亡くなった人で、自分にとって印象に残っている人たち、お世話になった人とかいろいろいろ、つまり私にとって大切な、特別な人たちですが、その名前をずうっと言っていくのです。今、二百人くらいになっているかな

金子 兜太(かねこ とうた、1919年(大正8年)9月23日 – 2018年(平成30年)2月20日)は、埼玉県出身の俳人。加藤楸邨に師事、「寒雷」所属を経て「海程」を創刊、主宰。

冒頭の言葉は毎朝唱える「立禅」と自ら呼んだ方法である。坐禅ではなく立って行う。縁のあった人々を思い出しながら生きていることに感謝する儀式だ。最後は、両親と妻の皆子さん、それに飼っていた犬猫で終わるとか。金子兜太は「長寿への意志」をはっきりと持って生きていた。この快老人は95歳では確か「百五才を目指す」と宣言していたのだが、本日98歳で逝去。百歳にわずかに届かなかった。

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